平成アーカイブス 【仏教Q&A】
以前 他サイトでお答えしていた内容をここに再掲載します
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質問:
浄土真宗には魂という概念が無いと聴きますが。
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この問題に関しては「浄土真宗独特の概念」はありません。正しく仏教を伝える宗旨であれば、ほぼ共通した認識を持っています。それは「有見と無見の極端な片寄った見解をしりぞける」という姿勢です。
「有見」とは、「魂は有る。常住不変の魂が存在してそれが輪廻する」と、とらわれる考え。
「無見」とは、「魂は無い。すべて空無である」と、とらわれる考え。
どちらも誤った考えです。
死後や自分の存在を言葉やイメージで限定し、限定した事でそれにとらわれる、という生き方を否定していくのが仏教の基本です。
有無の邪見をはっきりと批判されたのは「龍樹菩薩」です。龍樹は「八宗の祖師」とたたえられている大乗仏教の大成者ですので、この辺りまでは仏教共通の認識があります。なお龍樹は、自らの往生については、阿弥陀如来の浄土への往生を願われました。
そのため、真の仏教では「有見」を批判し、肉体と区別された精神、つまり「霊魂」等の言葉は用いないように心がけるのです。しかし、自らの罪悪に慚愧・反省する心なく、世俗の罰さえ逃れればよいとする不心得者がいるため、あえて「魂神精識[ごんじんしょうしき]」等の輪廻の主体を表わす言葉を用い、罪過を重ねないように導くことも必要となります。しかしこうして用いた方便は必要が無くなれば捨て、より広く積極的な生き方として、如来回向の菩提心に満ちた「正定聚・不退転の生活」をお勧めするのです。
お釈迦様は自分の入滅後、遺体を鳥にでも食べさせろ、とおっしゃっておられたという言い伝えがあります。娑婆での物理的存在としての生き物は自然の循環の中に帰るべきだ、と解釈出来ます。
しかし、娑婆のご縁が尽きたら(死後とは限りませんが)仏になるのが仏教ですから、たとえば私が死ねば、娑婆に残す遺体は土に帰りますが、私はお浄土に仏として生まれます。
この場合の、娑婆の体から離れた私を魂だと思う方もいるでしょうが、それが「有見」ですね。浄土も仏も無い、物理的身体を伴っている私が死ねばそこで「いのち」が途切れ、土になるのみ、と考えると「無見」と言えるでしょう。
「浄土真宗には魂という概念が無いと聴きますが」とご質問にありますが、浄土真宗に限らず、仏教が「魂」という語を使わないのは、仏教の始祖とされるゴータマ・ブッダ(お釈迦さま)が、当時(紀元前400年ごろ)インドで議論されていた、「魂」はあるかないかという問題について、「あるのでもなく、ないのでもない」というかたちで批判したという伝統を受け継いでいるからです。(ただし、お釈迦さまはそのような問題に対しては黙して答えなかったという説もあります)
ここでいう「魂」とは、輪廻(生まれ変わり)する主体、つまり肉体が滅びてもなくならないもののことで、そのようなものがあるかないかについて、当時の古代インドでは真剣な議論がされていたそうです。
これに対する、お釈迦さまの答えは一風変わったもので、「あるのでもなく、ないのでもない」と答えたわけですから、質問者をおちょくってると考えてもいいぐらいですが、重要なのは、お釈迦さまは「魂」があるといわなかったと同様に、ないともいわなかったということです。いわば、「魂」があるとかないとか、「そんなことはどうでもいい」といったわけです。
なぜかというと、そういった議論は「輪廻」を前提にしているわけで、そういうありもしないものを前提にした議論はすべて駄目だからです。
「輪廻」とは、生前の善い行い、あるいは悪い行いによって、死後、善い世界(天)や悪い世界(地獄)、あるいは、人間界でもよい環境や悪い環境に生まれ変わるという考えですが、それは、古代インドにおいて、現実にあるカースト制、つまりきわめて堅固で、しかも細分化された身分秩序がもたらす悲惨な差別的状況に、絶対的な理由があるかのように見せかけるイデオロギーの役目を果たしていました。たとえば、バラモン(僧侶階級)に生まれたのは、前生でよい行いをしたおかげだとか、逆にシュードラ(奴隷階級)にうまれたのは前世で悪い行いをしたからだとかというふうに、すりかえていくわけです。
つまり、「カーストによる現実的悲惨」は単に悲惨だっただけでなく、それにありもしない理由と意味が付加されるという意味で、二重に悲惨だったわけです。
ですから、お釈迦さまがいおうとしたのは、現にある悲惨な状況を、ありもしない輪廻のせいであるとか、だからここから修行によって解脱しなければならないとかいうのはやめて、まず、単なる現実的悲惨に直面せよということです。
そのことによって、はじめて「他者に対する実践的倫理」が可能になるということです。さらにその上で、具体的な状況の中で「抜苦与楽」すること、人々から苦を抜き楽を与えることが、お釈迦さまにとって緊急の課題であり、逆にいうと、そういう現実的契機を抜きにして仏教を考えることはできません。
ですから、仏教が「死んだらどうかなるか」といった問題に解答を与えないのは当然で、仏教はそういう思弁的かつ高級な問題に頭を悩ますことは、現実の問題を解決するためには、百害あって一利なしだとして、放棄したわけです。
しかし、皮肉なことに、輪廻(生まれ変わり)という観念のない所に仏教が伝わった場合にはそうはいきませんでした。仏教が当時のインド社会との間にもっていた緊張関係が捨象されてしまった結果、仏教が標的としていた「輪廻」まで、仏教自身が説くものと思われてしまったのです。
今でも、生まれ変わりが、仏教のオリジナルな思想であるかのような誤解が絶えないのは、日本にも生まれ変わりという観念がなかったからです。
ということで、仏教の正統からいうと、「生まれ変わる事もないのでしょうか」とか、「地獄も無ければ天国もないのでしょうか」といったご質問に対しては答えないのが正しいと思いますが、あえて危険を承知でお答えしてみましょう。
そもそも、わたしたちが死後のことを語るとき、しょせん分からないことなので、何でも好きなことがいえます。しかし、逆にいうと、何を言ったところで「独断」にすぎません。われわれには、死や死後について有意味に語ることは不可能なのです。たとえば、「地獄にいく」というにしろ、「天国にいく」というにしろ、それらはいずれも、死への恐怖心や死後への願望の投影にすぎません。もっと言えば、「死んだらそれっきり」という言葉でさえ、「考え」にすぎないのです。実際はそれっきりかどうか分からないわけですから。もしかすると生まれ変わりは実際にあるかもしれませんし、要するに、これは死んでみなければ分からないことなのです。といっても、死んだらわかるという保証もないのですが。
いづれにしても、死後のことについて思い悩むのは、人間の条件であり、そこから完全に自由になることは難しいことです。カントは「人間の理性は、その認識において特殊な運命を持っている―理性は斥けんと欲して斥けることができず、さればといって、それを解答することもできぬ問題によって悩まされるという運命をもっているのである」といっています。死や死後の問題はまさにこれで、解答することはできないけれど、それに悩まされる問題の代表です。しかし、そのようなものだと認識するときには、じつはすでに死や死後に対する「感情」からすこし自由になっているんですが。
しかし、結局そこから覚めるには、自分が悩んでいるのは、実際にどうなるかということではなく、それについての自分の考えによって悩まされているのに過ぎない、つまり自分の頭の中で、堂々巡りをしているにすぎないということに気付くしかないのではないでしょうか。
死や死後のことについて考えることが何よりも大事だと思える気分(心理状態)があることは、分かりますが、しかし、自分がどう思ったところで、思ったようになるわけではない。
ちなみに、浄土真宗では、「死ぬ」とは言わず、「浄土に生まれる」と表現しています。それが「生まれ変わり」と違うのは、わたしたちが死後に、よい世界もしくは悪い世界、いづれにしてもわたしたちが考えているような世界に行くという考え方の否定の上に成立しているからです。ということは、たとえば、死後よい所に生まれるために、この世でよい行いをしておこうというふうに、死後に向かって、この世の生活を律していくような生き方をやめようということでもあります。
「人間は死ぬと土に帰るのでしょうか」とありますが、少なくとも現在の日本では土葬はほとんど行われていないので、「土に帰る」という表現は不適切かもしれませんが、「肉体を構成していた物質は自然に還元される」と言い変えるなら、これは事実です。つまり、肉体が滅びたあと原子に分解し、それが自然環境に還元される。このことを、わたしたちを構成していた物質は自然の大きなサイクルの中で循環しているという、いわば「科学的輪廻思想」のように語る人もいます。たしかに原子レベルでみれば、肉体を構成していた物質は何一つ失われていないわけですが。しかし、別に神秘的に考える必要はありません。要するにあたりまえのことにすぎないのではないでしょうか、肉体がほろびて灰だとかカルシウムが残るというのは。しかし、死んだときすでに「わたし」はいないのですから、そんなことは知ったことではないわけです。
しかし、そもそも死というものは、存在するのでしょうか。
哲学者のウィトゲンシュタインは『論理哲学論考』の中で、「死は人生の出来事ではない。ひとは死を体験しない/永遠が時間の無限の持続のことではなく、無時間性のことと解されるなら、現在のうちに生きる者は、永遠に生きる/われわれの生には終わりがない。われわれの視野に限りがないように」といっています。
死が人生の中のできごとでないことは、お分かりいただけると思います。時間の持続という観点を排するなら、現在生きていることは、永遠の事柄です。さらに、わたしたちの視界には文字通りすべてのものが映っている、逆にいうと、映らないものがないのと同じように、わたしたちの生には欠けたものも、どこへ向かっているということもなく、それですべてです。この考えはすくなくともわたしにはぴったりきます。実際のところ「生」しか存在しないのではないでしょうか。
[相川拓善]